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徳田尊 より
水中に悩む人魚の姫君に、深き慈悲の手を。
人中(ひとなか)で抱く愛惜の日に、猛き熱の風を。
本当に相手の全てをとらえた(と感じる)時、人間関係は上辺の社会的やり取りの服を脱ぎ、心で会話ができるようになる。
大人が抱える厄介で頼もしき社会性は、その柔らかな繋がりを隠す事さえ強要し、強い精神の男女は、その秘め事に楽しみすら見つける。
具体的に手の突っ込みようがないので余計な神経を逆撫ですることを承知でいうが、不倫や不倫に似た関係なら、やめておけ。
不倫は、単なる密通とは違う。不倫の劇場には、己を正当化した人間しか出てこない。
自己犠牲で徳を重ねる人間が出てこない。
欺瞞と利己主義と肉欲だけが充満している。
「出会いと嬉しさ」がすでに、「別れと悲しみ」の種になっていると知らねばならぬ。
子供がいつまでも“眠る用の汚いタオル”を離したがらないように、オマエとオマエの執着は、ややもすると周りに悪臭を放つボロギレになっているかもしれない。
ジェットコースターでさえ楽しいと感じるから金銭を支払っても恐怖を娯楽にしたがるくせに、事故が起こればそれに群がった自分の責任にはほっかむりをする。自分の乗る車両がジェットコースターか、普通列車かくらいは、大人なら知っておく必要があるぞ。
想像は、遠いほど楽しい。近いほどしんどい。そしてその優劣は、実現可能性と反比例することが多い。
つまり叶わない夢だからこそ楽しい。実現させるための苦労が目に見えている近い想像は、意外とツラい。
オマエが胸に抱く彼への感情が、「愛」なのか「恋」なのかを、じっくり見つめるべきだ。
それは上に書いた「想像」と、とても似ているぞ。
水に例えて思慮の深さを探るのは、人間に許された素敵な知的遊戯だ。
彼が謎をかけたのだから、オマエもそれにつき合う義務はある。
それに合わせて、神からもひとつ例えておこう。
水は必ず、高きから低きに流れるものだぜ。
細かい悩みもさらに受け付ける。
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