|
|
徳田尊 より
物事の捉え方には、なん種類かがある。
自分で“名づけ直す”ことによって、その内容の見えなかった部分がまざまざと見えて来ることがある。
ツラかった思い出を「いい経験」と名づけ直せばまた効果的なエッセンスとして活用もできるし、
いい思い出を「馴れ合いの所産」と名づけ直せばまた、反省の材料として今後に活かせよう。
甘えと好きは、ハサミの両端だ。
不用意に両側を近づければ、挟まれた相手は傷ついてしまう。
でも、彼を刃の外に出すのはイヤだから、挟んでしまわないように、内側にとどめている。
この不安定な状態は、その二本の感情が、オマエの手元で交差してしまっていることに原因がある。
心の支点でクロスしてしまっているから、動かすと内側の刃(やいば)で相手を傷つけることになってしまう。
だからオマエも、不用意に動かすことをためらっている。
その交差を外し、お箸のように素直に二本で包んであげられたら、切り刻むようなことは起こらない。
交差を外す、とは、切れる側とは違う側で相手を挟め、ということだ。
つまりオマエが今、「傷つけたくない」と感じているのは相手ではなく、オマエ自身なのだ。
また我が身かわいさから誤摩化しをして、相手を思いやっている風を装って、自分が傷つく事だけから逃げている。
うまく利用しているつもりがいつのまにか利用されていて、それに気付かぬフリをする。
人間は傷ついて、痛みを覚えて、そこから回復するとき、マイナスからフラットに戻るついでにプラスを獲得する。
自己愛をどれくらい相手の為に取っておいてあげるかが、思いやりの素になる。
付き合うことを面倒と感じるのは、
オマエが、2007年まで続けていた関係を、
お前が続けていた“片思い”とやらのことを、
「性欲のために遊ばれていた」と名づけ直すことができないのであれば、
新しいオマエにも強化は期待できまい。
完璧などない。
傷つけ、傷つき打ちのめされても、素直でいればよい。
“あたしはこうなんだ”と自分を規定してしまうのは、
“あたしはこうでしかないんだ”と狭めてしまうことに他ならない。
自分が自分につくウソは固まりやすい。
誰も見抜いてくれないまま、歳をとってしまう。
いつしか気付かぬまま、違う自分が組み上がってしまう。
それが「こんなはずじゃなかった」という後悔に繋がる。
オマエを変えるのは、「たった一言」などではない。
「相手を優しく見つめる千の目」だ。
オマエはただ、いるだけで価値がある。
なにが出来るからとか、見た目がどうだからだとか、どういう人だからだとか、
そんな理由ではない。
オマエには、もうすでに大変な値うちがある。
そんな目で相手を観てみよう。
オマエに出来ることが、わかってくるはずだ。
それがオマエの望む、
『一緒にいることが自然で柔らかい穏やかな恋愛』のきっかけになるはずだ。
愛は、打算からは生まれない。
細かい悩みもさらに受け付ける。
|
|