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「後方羊蹄山」と「十勝岳」
投稿者:
遊雪会 福 田
投稿日:2004年 7月13日(火)23時46分42秒
2004年7月9日〜11日
「日本百名山」達成に向け、6名で北海道に渡った。羽田発の格安チケットをゲットし、道内はレンタカーで廻ったが、今年は天候不順の年なのか梅雨のある北海道?だった。最初から最後まで雨に降られて帰ってきた。「後方羊蹄山」の高山植物は今を盛りと咲き競っていたが、景色はまるでダメ。山頂直下では単独行の登山者が脳梗塞?で倒れていた。どう助ければ良いのか分からず、体を温める手伝いくらいしか出来なかった。骨折や捻挫なら応急手当をして避難小屋に連れて行くくらいは出来そうだが。ヘリも飛べない悪天時に最悪の事態となった。(登山口から4時間以上かかる地点)
「十勝岳」は望岳台から登ったが、歩きやすい登山道の為か意外に早く山頂に着いた。何故か山頂だけ青空が出ているのだが、ちょっと下ると霧雨に包まれていた。活火山の噴煙は雲に紛れて見えるはずも無かったが、那須の茶臼岳で聞き覚えのあるジェット機の飛ぶような轟音だけは下の方から聞こえた。標高1700メートルを越えた所の沢には大きな雪渓が残っていた。麓のスキー場はリフトも外され閉鎖になっているようだが、どう見ても下の方はなだらかすぎて滑らないのではないかと思われる斜度だった。
下山後、旭岳ロープウエーで行く大雪山「旭岳」にも時間的には登れそうだったが、山頂を踏むだけの登山をあきらめ、改めて出直すことにした。対称的な2山に登って残りが4山となった。これまでにも雨にたたられどこを歩いて来たのか分からず、山頂だけ踏んで来た山がいくつあった事だろう。そう言う山には天気の良い日に再度登ってみたいと思うのだが・・・・。
県岳連主催「日光清掃登山」に参加して。
投稿者:
遊雪会 福 田
投稿日:2004年 7月 5日(月)22時11分31秒
2004年7月4日(日)
毎年この季節に行われている「清掃登山」であるが、こんなに天気が良いのも珍しいのではないだろうか?今回で第31回との説明が主催者側からあったが、快晴のもと集まった参加者は明らかに昨年より多い。
今年はゴンドラ利用で登る「白根山」を選んだ。「戦場が原」に行く3名と分れ自分達3名は車二台で「丸沼スキー場」に向かった。「金精トンネル」入口に一台停めてからゴンドラへ。スキーで利用しているが、この時期に乗るのは始めてだった。清掃登山につき料金はタダ。山頂駅に着いて「白根山」をまじまじと眺めるとまさしく三つのピークが「山」の文字を表現しているようで、新しい発見だった。日光側の前白根から「五色沼」を前景に佇む姿が有明だがこちらからの眺めもまた良い。二時間足らずで山頂まで行けるのだから、ゴンドラ利用の登山者が集中するのも無理無い所か。登山道の整備も良くて目に付く範囲はいたってキレイで小さなゴミくらいしか落ちていなかった。森林帯を抜けザレ場に来ると景色も良くなって「ハクサン石楠花」「キバナ、シロバナヘビイチゴ」が開花していた。一般の登山客も多く山頂は写真を撮る順番待ちをするほど混雑していた。山頂付近はドーム状に盛り上がっているので大きな岩を避ければ平らな場所も多く、湖を眺めながらの休憩ポイントがたくさんある。それだけにゴミも多かったが、風で飛ばされた弁当の箸袋や、小さな包装紙ぐらいなものだった。自分は空缶などの危険物を拾って歩いたが、年代ものの錆びた空缶が多く、時代を反映しているように思えた。「弥陀ガ池」に下りて、かつての「シラネアオイ」の群生地を見たが面影はなかった。かろうじて防護ネットに守られたエリアがあるようではあったがそれ以外は、鹿が食べない「マルバダケブキ」や「コバイケイソウ」ばかりが目立った。「五色山」に登り返すと山頂付近に古いゴミが埋められている所があったので、目に付く範囲のゴミは拾い集めた。「金精山」に向かう登山道は笹に覆われた所もあったり、深く抉られている個所も目立った。何より驚いたのは、かつて巻き道だった登山道が「金精山」の山頂越えに代わっていた事だ。おかげで始めて山頂を踏んできたが。
「金精山」からの下りは凄い崩落跡があって、そこに付けられた梯子を幾つも通過しなければならない難所になっていた。今でも新しそうな崩壊跡があるので縦走路中の危険地帯と言えそうである。金精神社に下りてさらにトンネル脇の駐車場までの下りも崩落が進み、登山道が上の方に付け替えられている。金精山から峠の一帯はもろい地質が連続しているようなので将来的に登山道は全く別な所に作らなければ、維持できないように思った。
(車を回収して湯元付近を走っている時、背負子に山ほどのゴミを積んで下山して来た渓嶺の数名の方々とすれ違った。噂には聞いていたが五色沼の避難小屋周辺を徹底して綺麗にしてきたらしい。冬山で小屋を利用した人達が残した様々な残骸であろうか?山のトイレ問題が頭をかすめた。敬意を表します。) S・FUKUDA 記
富士山
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 7月 5日(月)09時12分3秒
2004年7月3日(土)
午前7時、富士スバルラインの終点、5合目の駐車場を歩きだす。ふと、「富士山に1度も登らないバカ。2度登るバカ」という俚言を思い出す。富士山が霊峰であることを思えば、前段はよく理解できるが、後段はどういう意味なのであろうか。かく言うぼくは、今日が4度目の富士登山である。最初に登ったのは、1979年7月28日で、それほど間を置かずに2度めの登山をしている。いずれも吉田口から登って、8合目の山小屋に泊まったが、客あしらいの悪さと居住条件の悪さに辟易したものである。おまけに、夜中に嘔吐したりして、ずいぶん苦しい思いをさせられた。3度目は、4年前の10月に、富士宮口から日帰り登山をしたが、この時は至って快調だった。そういう経験があるので、昨夜は、河口湖のビジネスホテルに泊まった。駐車場から20分歩いて、佐藤小屋との分岐になる、泉ヶ瀧に着く。正面に「泉ヶ瀧」の3字が刻まれた石碑の左側面には、「文政九丙戌年(1826年)八月」とあり、また、その右側面には、「同行」と彫られている。地名から察するに、ここは、かつての水場であったらしいが、今は、泉も瀧もない。附近をよくみると、高さ4、5Mの涸れた滝があり、滝壺には、わずかの溜まり水がある。この石碑の存在は、ぼくの脳裏からきれいさっぱり消えうせていたので、新しい発見をしたような気分になる。泉ヶ瀧からは、ほぼ等高線沿いに歩くと、森林限界を越えた6合目に出る。途中、たくさんの下山者とすれちがうが、どの顔も明るく輝いている。昨夜、ホテルのカーテンを引いてみたら、富士山の上空に満月が浮かんでいたから、ご来光を心行くまで楽しむことができたのにちがいない。7合目まで登ると、次々に山小屋が現われる。曰く、花木荘、日の出館、トモエなど。鎌岩館の手前で、最初の休みを入れる。高度計を見ると、2730メートルである。山中湖をすぐ足元に見下ろすことができる。7合目を過ぎると、それまでのザレ道から、岩稜の道になる。東洋館、蓬莱閣を過ぎると、昨夜泊まった河口湖畔までを遠望することができる。標高3200Mの白雲荘まで登ると、少し風が出てきて、メッシュの半袖シャツでは寒いので、半袖のポロシャツを重ね着する。本8合目の富士山ホテルまで来ると、「胸突八丁 3400M」と書いた標柱がある。あと高さにして376M詰めれば、富士山頂である。「意外にあっさりと登れるものだ」と思ったが、この頃から、しきりに生あくびがでてならない。気のせいか、すこし息苦しい。頭上を見上げると、9合目の下の鳥居と頂上の上の鳥居とが見えるが、なかなか近づいてくれない。登山道に寝そべった子供に、携帯用の酸素を吸わせている白人もいる。言い忘れたが、今日の登山者の3分の1は、外国人が占めている。富士山が、外国人にこんなに人気があるとは知らなかった。牛歩を続けてようやく、「冨士山淺間大社奥宮」と刻んだ大理石の標柱が立つ、吉田口頂上にたどりつく。奥宮の社務所の中では、神妙な表情の外国人が行列を作って、金剛杖に最後の刻印を押してもらっている。ところで、ぼくは、富士山の最高地点は、ここから30分以上も離れた剣ヶ峰であることを知っている。だから、もう一頑張りしない訳にはいかない。時計周りに、お鉢めぐりに出かけると、登山者の数は激減する。富士宮口の奥宮から最後のザレ場にかかると、さすがに息苦しさが増してくる。黒御影石に「日本最峰富士山剣ヶ峰 三七七六米」と刻んだ標柱の前で、家から持参した桃を食べる。すこぶるつきの美味であった。食後に、お鉢めぐりを続行し、吉田口の奥宮に戻る。奥宮の背後には、大理石製の方位盤が置かれている。台座には、「創立10周年記念/全日本山岳リレー縦走/昭和41年6〜8月/主催 国鉄山岳連盟」と4段に刻んである。方位盤の中央には、富士山が突起しており、その周囲には、無数の山岳の名称が刻まれているのだが、吹き上げるガスのために、遠望にはめぐまれなかった。下山の際は、新設のつばくろ東沢下山道を取ったが、展望にめぐまれない単調なコースだった。そのせいか、5度目の冨士登山はないかもしれないと思った。
白馬岳(その2)
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 6月15日(火)22時10分43秒
2004年6月14日(月)
昨夜は、午後7時には眠りに落ちたていたので、午前2時に目が覚めてしまう。すでに、寝足りているらく、次に眠りが訪れてくれるまで時間がかかったが、ほんのしばらくうとうととすることができる。次に目が覚めたのは、3時30分であった。2度目に眠りが来るまでに、今日の予定に着いて考えてみる。ぼくは、もともと栂池に抜けるつもりでいたのだが、昨日チェックインした時、支配人氏は、「乗鞍岳からの下りの雪渓には、トレースがないかもしれません」と、暗に引き返すことを勧めたものである。それよりも気がかりなのは、自宅に置いてきた予定表には、「今日中に電話をする」と書いてきたことである。まさか、山小屋の公衆電話が故障する事態は想定していなかったので、ケータイも持っては来なかった。これも、天の神様の「来た道を引き返せ」というご託宣かもしれないと思い、栂池ルートは断念することにする。
「火気厳禁」の掲示に従って、小屋の外でお湯をわかし、いつも通りに「どん兵衛」で朝食をすませる。3時50分、村営宿舎を出て、日の出を拝みに白馬岳の頂上をめざす。4時22分に頂上に立ってみると、火打山と妙高山の鞍部から太陽が上がったところである。一応、古式に則って神妙に拍手を打つ。何気なく、背後を振り返ってみると、白山のかなり右手(北方)、笈ヶ岳と大笠山の上空に、見事な影白馬ができている。その手前には、黒金の香炉のような剣岳がすっくと聳え、その南には、別山と富士の折立が連なり、わずかに雄山のピークがのぞいている。さらに、その南には顕著なカールを抱いた、黒部五郎の山容が秀麗である。そして、その東南には、槍ヶ岳から前穂高岳に至る連峰が遠望される。身体を反転させて、東南の方角を望めば、八ヶ岳の右裾の上空に富士山が小さく浮かんでいる。八ヶ岳の南には、甲斐駒から赤石・聖岳に至る長大な南アルプスの連峰がまるで箱庭のようである。さらに、その西には、中央アルプスが一塊になっている。視線を東に転じてみよう。浅間山、四阿山、岩菅山は容易に同定することができる。しかし、そこからさらに東に見える山群の同定には困難を感してしまう。しばし、これらの山々を見つめているうちに、緩やかな傾斜の山頂を持つ苗場山をそれと同定することができる。それからは、すらすらとその他の山岳を同定することができるようになる。苗場山の東北に聳える大きな山体は、魚沼駒ケ岳と中ノ岳にちがいない。この判断に誤りがないとすれば、その右手の平坦な山頂は、平ヶ岳であり、さらにその右手の秀峰は、燧ヶ岳である。その奥に見えるピラミッドは、日光白根山かもしれない。無風快晴の白馬岳からは、日本百名山の3分の1くらいの山座を同定することができている。十分に、山岳展望を堪能したけれども、まだ山の神に電話をするには早すぎる。それで、白馬岳の山頂から北上して、三国境まで早朝「山」歩をしゃれこむことにする。昨日の頂上宿舎の支配人の話では、「去年は、雪が少なかった。宿舎の下のお花畑も、例年よりも2週間は早く、『海の日』には盛りを迎えているでしょう」とのこと。なるほど、白馬岳の頂上付近には、ほとんど残雪がなく、砂礫地には、この山固有のツクモグサが咲きかかっている。三国境に行く途中、かつて泊まった雪倉岳の避難小屋がひっそりと建っている。「今度は、あの小屋に泊まってやろう」と思う。三国境から引き返して、白馬山荘の公衆電話で、まだ眠利こけていた「山の神」に「無事」を伝えて、今回の登山を終了することにした。
白馬岳(その1)
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 6月15日(火)21時08分12秒
2004年6月13日(日)
天気予報では、今日の昼ごろから向こう1週間は、梅雨の中休み」とのこと。願ってもない予報なので、急遽、登山に出かけることにする。どこに行こうというアテもないのだが、昨日届いた家内の友人からの絵手紙に、「今年の夏は白馬に登る」とあったのにつられて、ここを目的地に決める。朝1番の新幹線で長野に行き、白馬駅で猿倉行きのバスに乗りかえる。日曜日だというのに、車内には、ぼくを含めて2人しか乗客がいない。10時に猿倉を歩き始めて、1時間後に白馬尻の小屋に着く。小屋の手前、200Mから雪渓が現われる。雪渓の取り付きの左手斜面の草付きには、シラネアオイ、サンカヨウ、それに、キヌガサソウが花盛りである。昼飯を食うつもりだった、馬尻の小屋は、まだ営業が開始されていなかった。軽アイゼンを履いて、雪渓を歩き出す。雪渓の斜度は、最初のうちは緩やかだったが、Y字型の二股にさしかかる頃から、俄然その斜度を増してくる。雪上に撒かれたベンガラ(紅殻)に導かれて、左に進路を取る。急斜面を登りきったところに、大きな岩石がごろりとしているので、これに腰をかけて休息を取る。この頃になって、白馬連峰は、急速に晴天域に入ってきて、頭上に青空が広がってくる。見上げると、大雪渓終点の葱平の岩稜が黒々としており、しかも指呼の間に見えているではないか。「30分でこなせるかな」と思ったのは大間違いで、葱平はなかなか近づいてはくれなかった。休憩地点から、1時間15分後にようやく葱平の末端にはいあがる。ガスコンロに火を点けて、コーヒーを賞味しつつ、遅めの昼食を食べる(パン)。すでに夏道は出ているものの、折角ピッケルを持っているので、岩稜沿いに雪渓を登るが、それほどスピードは上がらない。岩稜最上部からは、雪渓を左から右へトラバースし、避難小屋の真下に出る。稜線から下りてくる風は、さすがに寒いので、メッシュの半そでシャツの上から半袖のポロシャツを羽織る。小屋の裏手まで来れば、村営頂上宿舎がすぐそこに見えてくる。アイゼンをはずして、岩稜を歩きながら考える、今夜は、村営の小屋に泊まろうか、それとも、白馬山荘に泊まろうか、と。実を言うと、ぼくは、いつも村営の小屋に泊まってばかりいて、白馬山荘には泊まったことがない。なぜかと言うと、村営の小屋に不満を感じたことがないからである。その理由の第一として、この山小屋では、空き部屋がある限り、ただ1人の客であっても、その他の客と相部屋にはしないのである。いつでもそうだとは限らないかもしれないが、徒歩15分の距離にある、白馬山荘よりも地理的条件がよくないのだから、何かのサービスがなければ、客を引き止めることはできないのではなかろうか。そう判断して、今日も、村営宿舎のフロントの前に立った。ぼくの判断は、極めて正確であり、支配人氏は、「広すぎて寒いかもしれませんから」と言いながら、「戸隠」という大部屋に一人で泊まらせてくれた。この部屋には、3人が共用で1つの布団にくるまって寝るようになっていたが、ぼくは、小屋泊まりの時にはいつでも、シュラフカバーを用意しているので、対策は万全である。夕食は6時からとのことであるが、1時間30分も余裕があるので、白馬岳の頂上を踏んでくることにする。村営小屋から稜線に出て、すぐ背後にある白馬山荘をめざす。意外だったことは、山荘の「スカイプラザ」がまだ営業されていず、「7月1日営業開始」の張り紙が出されていることだった。白馬岳の山頂からは、かすかに日本海の海岸線を見下ろすことができた。また、遠望はきかなかった。6時少し前に村営小屋に戻ると間もなく、夕食の時間になった。日本酒「白馬錦」を賞味しながら、夕食を楽しむ。ただ1つだけ遺憾であったのは、公衆電話が故障で、山の神に「無事」を連絡できないことである。
温泉ヶ岳
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 6月 6日(日)12時39分30秒
2004年6月5日(土)
この数日、初夏には珍しく、からりとした晴天が続いている。しかし、予報によれば、この晴天も今日限りで終わってしまい、これから1週間は、天気がかんばしくないとのこと。ならば、この晴れ間を逃す手はない。急遽、山に出かけることにしたので、目的地が決まらないままに、自宅を出るはめになる。東北自動車道に乗ってからもなお、八方ヶ原(大入道)のシロヤシオを見に行くか、金精峠から温泉ヶ岳にかけてのシャクナゲを見るかの決断がつかないままである。いざ、宇都宮ICにさしかかると、さしたる理由もなく、日光方面にハンドルを切ってしまう。中禅寺湖まで上がると、すでに新緑の季節が終わってしまっていて、2週間前に見た、陽光を透過するような新緑がなつかしい。午前6時、金精トンネル手前の駐車場にクルマを入れるも、すでに8台の車輌が駐車しているではないか。いつも通りに、「どん兵衛」を食べて朝食に代える。出発前、金精山に突き上げる尾根に視線を走らせたが、トウゴクミツバがちらほら見えるだけである。どうも、今日はあてがはずれたようである。何となれば、この尾根の末端は、例年、シャクナゲの花でピンクに染まるからである。気を取り直して、金精峠への急登にかかると、幾株かのシャクナゲが満開である。ひょっとしたら、峠から先では、シャクナゲのトンネルをくぐれるかもしれないと期待を抱く。峠には、盛りを過ぎたとは言え、ミネザクラが小さな花をつけている。微風快晴の空の下、湯の湖・戦場ヶ原の向こうに、男体山が堂々と屹立している。その右裾には、中禅寺湖がちょっとだけ顔をのぞかせている。休みの腰をあげて、峠から北に向かうと、群馬県側の斜面に、八分咲きのシャクナゲが少なくない。これは期待が持てるぞと思ったのもつかの間、尾根道のシャクナゲの群落は花を見せてはくれなかった。今年は、花芽をつけないハズレ年なのである。気を取り直して尾根道をたどると、左手に、残雪で頂稜を斑模様にした、武尊山を遠望することができる。また、足元には、紺碧の湖水が樹林を透かして見下ろされる。手前が菅沼で、その向こうが丸沼であるのは、その形から判断することができる。やがて、残雪が見えてくると、背丈の低いオオシラビソの幹に、「温泉ヶ岳入口」の標識が結んである。標識には、「がんばれ 10分」の書き入れがある。温泉ヶ岳の頂上に続く踏み跡は薄いけれども、白や黄色の太いテープに導かれて、三等三角点が待つ温泉ヶ岳の頂上に立つ。まず、残雪が豊富な曾遊の会津駒ケ岳、燧ヶ岳、そして至仏山に対面する。燧ヶ岳と至仏山との間には、黒々とした景鶴山、その奥に平ヶ岳、さらにその奥に中ノ岳が控えている。これらの山々はいずれも、容易には山頂を踏ませてくれなかったので、思わずなつかしく見入ってしまう。至仏山の左手には、三角錐が特徴的な笠ヶ岳、さらにその左には、万太郎山、仙ノ倉山、平標山と続き、最後は苗場山がその平坦な頂上を見せている。そして、双眼鏡でのぞいてみると、苗場山の奥に高々と聳えているのが、妙高山なのか高妻山なのか判然としない。今度は、反対側の東を見ると、高原山を背景に、女峰山、小真名子山、大真名子山、そして、男体山の日光連山が眼前にでっかく聳えている。総じて言えば、温泉ヶ岳の頂上は、なかなかの展望台なのである。それで、小1時間を費やして、山岳展望にふけることができた。金精トンネル入口に戻ってみると、無慮、50台もの車輌が駐車しているではないか。道理で、下山の途中、大勢の登山者とすれちがったはずである。
熊野岳
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 5月30日(日)21時46分55秒
2004年5月29日(土)
高橋信一氏の「東北の避難小屋144」は、手間ひまがかかった労作である。以前からこれを活学活用してみたいものだと思っていたので、手始めに蔵王の熊野岳を選ぶことにした。蔵王ハイラインの終点にある、宮城県営蔵王レストハウスの2階の一部が避難小屋になっているとのことなので、昨夜は、ここに泊まることにした。勿論、事前に宮城県観光課に電話を入れて、「使用可能」を確認しておいた。だが、すでに本日の営業を終了したレストハウスには、何かのエンジン音が轟音をあげている。同書によれば、ここから徒歩5分の距離にも、刈田岳避難小屋があるそうだが、濃霧のためにそこまで行こうという気になれない。「この騒音は、いずれ止むにちがいない」と思って、晩酌を始めたが、晩酌が終わっても一向に止む気配がない。あきらめて、小屋の中に張ったテントにもぐりこむ。何度も夢を破られながら、ふて寝を決め込んでいたが、午前2時過ぎに目覚めたら、もう眠りは訪れてくれない。3時にテントを這い出すことにする。夜明けにはまだ間があるので、ゆっくりとテントを撤収して、駐車場に停めてあるレンタカーに放り込み、熊野岳めざして歩き始める。スキーツアーのために建てられた丸太沿いに、道幅のある登山道を北に向けて前進する。今年は、雪解けが早いらしく、すっかり夏道になっている。30分ほど歩くと、登山道は二分する。直登すると、稜線上の避難小屋に達する。斜上すると、熊野岳の頂上に達する。まず、避難小屋に行き、そこに荷物をおいてから、熊野岳の頂上に向かうことにする。午前4時に、避難小屋に着き、入口に荷物を置いてから、西に向かって平坦な道を行く。すでに、夜が明け放たれているので、ヘッドランプを消しておく。熊野岳の頂上には、中程度の大きさの神社と、それよりも大きな休憩所があった。傍らには、斎藤茂吉の歌碑が建っている。碑文は、万葉仮名で記されているので、前回来た時には、全部は判読できなかった。今日は、全部を解読できたので、古文書の読解能力がついたことを知って満足である。さて、頂上からの眺めはと言えば、山形市の市街地を見下ろすことはできたものの、そこから先の朝日連峰や飯豊連峰までは視界がきかない。だから、ぼくは、ごく短時間で熊野岳の山頂を去って、避難小屋に戻ることにした。パンとコーヒーの朝食をすませてから、予定通りに、仮眠を試みる。飲み残しのウイスキーが効いたせいか、2時間ほど深い眠りに落ちることができる。帰り仕度をすませたところに、単独行氏がやってきたので、かれに避難小屋を明け渡す。お釜を左にみながら、馬の背をレストハウスめざしてゆっくりと歩く。まもなくレストハウスに着こうとすると、ツアーの旗を掲げたガイド嬢を先頭に、今日最初の観光客がやってきた。登山姿のぼくは、場違いなところに身を置いているようなバツの悪さを感じながら、かれらとすれちがった。そして、刈田岳の避難小屋を見に行った。そこは、こじんまりとした、いかにも山ヤ向きの快適な小屋であった。今度来た時には、是非、この小屋に泊まりたいと思った。
花のやま、袈裟丸山
投稿者:
水仙月
投稿日:2004年 5月11日(火)17時16分51秒
弓の手の西尾根、けものたちの通る道を
分け入りながら登ってゆくと、山はツツジの群落。
うっすらと白くなりはじめたばかりのつぼみもあれば
全身全霊で自分の色に咲こうとしている、開花寸前のつぼみ。
山が深まるにつれて、花はより鮮やかになる。ひといろ、ひといろのピンク。
前袈裟丸山から弓の手へ下りる途中、折からの雨に、かすんで浮かぶ
落葉松の芽吹き、そしてアカヤシオのみやびであでやかなこと
袈裟丸山は、疲れも吹き飛ぶ花のやまだった
次回は4メートルもの大きさで自然石に彫られたという
寝釈迦像にぜひ逢いたいものだ
はなびらをこわさぬようにてのひらへ
那須の自然に親しむつどい
投稿者:
刑部 節
投稿日:2004年 5月 9日(日)18時57分1秒
「栃木県立なす高原自然の家」主催行事(親子対象)のご案内です。
期日:5月22日(土)13:00〜23日(日)
内容:22日八幡のツツジ観賞、ネイチャーゲーム、御神火祭参加
23日早朝バードウォッチング(希望者)、1茶臼岳登山コース(蓮実淳夫先生)、2:ゴヨウツツジコース(福田南海男先生)
費用:小学生以下3500円、中学生3700円、高校生4500円、大人6000円
詳細は0287-76-6240
大入道山開き!
投稿者:
なため
投稿日:2004年 5月 5日(水)09時17分32秒
高原山の山開きを名称を変えて小規模に開催いたします。
「大入道シロヤシオツツジを観る会」
期日 5月30日(日曜日)
集合 山の駅「たかはら」
集合時間 午前7時30分
詳細は後日
若見山
投稿者:
水仙月
投稿日:2004年 4月26日(月)11時58分7秒
前日(24日)に降ったらしい雪が、裏斜面にはまだうっすらと残っていました。
白い雪のあいだにイワウチワの群落がうすもも色の花を咲かせています。
登り始めは新緑の木々も、
高度が上がるにつれて、芽ぐみ初めたばかりの淡淡としたうすみどりです。
4月の山々は、これから始まる壮大な緑のシンフォニーの序曲のようです。
みどり児の誕生 山のここ彼処
ミツモチのヤシオツツジ!
投稿者:
なため
投稿日:2004年 4月22日(木)06時46分54秒
県民の森育樹祭会場からの新設登山道を使って、21日ミツモチに登りました。
1000メートル付近はヤシオツツジ満開でしたが、頂上から大丸にかけては1週間くらい?
29日頃 見頃になるのではないかと思います。
古峰ヶ原のヤシオツツジ
投稿者:
なため
投稿日:2004年 4月18日(日)22時09分28秒
15日は石裂山の満開のヤシオツツジを見てきました。
今日(18日)は古峰ヶ原三枚石新道を歩いてきました。ヤシオツツジ中腹は
未だ蕾なので、今週後半は見頃になるものと思います。
尚 古峰ヶ原ヒユッテまでかなりの車が上っていました。
百村山
投稿者:
なため
投稿日:2004年 4月11日(日)10時23分32秒
昨日(10日)百村山に登ってきました。
光徳寺から歩き出しましたが、カタクリはまだ咲いていませんでした。
林道にはかなりの車が有りましたが、黒滝山、大佐飛山に向かった様子です。
鉄塔の先から雪が現れましたが、溶けるのは時間の問題だと思います。
番外篇 ブレコン・ビーコン
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 4月 3日(土)22時44分31秒
2004年3月30日(火)
昨日は、イングランドとウエールズの境界にある、ヘイ・オン・ワイという古本屋が集中している町を散歩した。そこから、クルマで30分ほど南下すると、ブレコン・ビーコン国立公園の中心地、ブレコン・ビーコンに着く。泊まることになったBBで朝食の時間を尋ねると、「8時30分から」という返事。イギリス人は、この時間に朝食を食べてから山に登るらしいのだが、当方は、朝食をキャンセルして、早朝から登山をすることにする。
6時30分、BBを出発して、市街地の公共駐車場にクルマを停め、テルモスのお湯で日本から持参した「どん兵衛」を食べる。それから、ブレコン・ビーコンの登山口に向かったが、市内から10マイル以上走っても登山口の標識が現れない。そのうちに、貯水池が見えてきたので、登山口を通り過ぎてしまったことを知る。1マイルほど逆戻りすると、「TOILETS」という標識があるので、駐車場に乗り入れてみる。すると、登山者用の案内板や標識が立っていて、ここが登山口であることを知ることができる。家内に「3時間15分後に迎えにくるように」にと言い残して、登山を開始することにする。まずは、川幅5、6メートルの小川を飛び石づたいに徒渉する。小川を渡り終わったところで、強風に備えて、雨具の上下を着込んでおく。登山道の道幅は、4、5メートルもあり、ジープなら容易に上れるほどの緩い勾配である。山の斜面には、ただの一本も樹木が生えていず、見はるかす限りの草原である。細い流れがある谷間では、羊の群れがのんびりと草を食んでいる。次第に、高度を上げて行くと、黒い馬と白い馬が距離を置いて遊んでいる。登山口から1時間で、稜線に到達する。途端に、猛烈な東風に叩かれる。風の息の合間に、左手のピークに向かって牛歩をする。ピークには、スレート状の石を積み上げた円丘があったが、これは主峰の手前の偽の頂上だった。一旦緩やかに下り、登り返したところが、ブレコン・ビーコンの主峰(886M)であった。前衛のピークと同じく、ここには山名標識もなければ、三角点も存在しない。昨日、午後6時11分に登頂した登山者の記念の落書きがあることで、間違いなく主峰に到着したことを実感する。春霞のために遠望がきかず、南方の山麓にある貯水池がうっすらと見えるだけである。山頂から少し北に下って風を避けながら、テルモスのお湯で甘酒を作る。昨日、ヘイ・オン・ワイで買った、2万5千分の1地形図を開いてみたが、このあたりの土地に不案内なので、あまり役に立たない。それで、予定を早めて、山頂を辞去することにする。その頃になって、ブレコン・ビーコンは、登山者を迎えるようになった。登山口に着くまで、20人以上の登山者とすれちがったほどである。
番外篇 ランズエンド
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 4月 3日(土)21時52分58秒
2003年3月27日(土)
ランズエンドは、「大地の果て」という意味であるが、同時に、イギリスの最南端の地名でもある。一昨日、成田を飛び立って、その日は、ロンドンの西にあるレディングのBB(イギリス版民宿)に泊まる。昨日は、無料の高速道路を500KM走って、ランズエンドのすぐ近くに宿を取った。わたしがなぜランズエンドに魅かれるかといえば、それは登山によく似ているからである。つまり、登山は、垂直の先端をめざす行為であるが、大地の果てをめざすのは、水平の先端をめざす行為なのである。ランズエンドには、白く塗られた標識が立っていて、「JOHN O’GROATS 874」「NEW YORK3147」と記されている。前者は、イギリスの北端の地名であり、数字の単位はマイル(約1600M)である。ここには、今から7、8年前に遊んだことがある。今日のランズエンドには、小雨が舞い降りているので、ザックにカバーをかけ、折畳の傘をさして、目的地のミナックポイントめざして歩きだす。連れ合いは、クルマで先回りして、わたしの到着を待つ手はずになっている。
ランズエンドからミナックポイントに至る5KMの遊歩道は、セントアイブスからペンザンスに至るまでの全長45KMのコーストパスの一部分になっている。遊歩道は、高さ100Mほどの断崖絶壁の上につけられているのだが、このあたりには樹木は一本もないので、どこまでも見晴らしがきく。天気がよくないにもかかわらず、足元の海の色は、見事な紺碧を呈している。断崖は、打ち寄せる波浪に侵蝕されて、無数の洞門ができている。日本や中国なら、「某々岩」と命名されるところだが、ここイギリスでは、標識も看板もいっさい立てられていないので、ただ「絶景」というしか方法がない。1時間歩いたところで、テルモスのお湯でフリーズドライの甘酒を楽しむ。天気は安定してきたので、傘をザックにしまって再出発する。今日は土曜日だというのに、ほとんどひとに出会わない。断崖に打ち寄せる波の音を聞きながら、ひたすら南に向かって歩いて行く。GWENNAP HEADまで来ると、白く塗られた2階建てがある。下から見上げると、中年の男性が手を振っている。壁に「WATCH STATION」と書いてあるところから推すならば、密入国者の監視所であるらしい。時計を見ると、ランズエンドを出発してからすでに2時間が過ぎてしまっている。連れ合いには、「2時間でミナックポイントに着く」と言っておいたので、いささかあせり気味になる。それで、正規のコースをはずれて近道を試みたりするのだが、なかなか目的地に着けない。おまけに、それまで見えなかった人家が現れるようになったので、散歩の快適性がかなりに減殺されてしまう。さらに、30分を歩いてようやく、ミナックポイントに着くことができる。ミナックポイントの断崖には、野外劇場が建設されている。この劇場は、ある女性がたった一人で半世紀の歳月を費やして完成したものである。わたしは、これまで2度も見学したことがあるので、見学する気にはなれない。そこで、ROSPLETHA CLIFFという断崖に連れ合いを誘い、ここで遅い昼飯を食べた。食事が済んでから、双眼鏡をのぞくと、野外劇場の全景を俯瞰することができ、劇場の中にいるよりずっとよく劇場そのものを構造を理解することができた。
籠の塔山
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 3月19日(金)20時47分32秒
2004年3月19日
籠の塔山は、信州百名山の一つで、烏帽子岳・湯の丸山の北に聳える無名の山岳です。登山口は、湯の丸スキー場のある地蔵峠です。烏帽子岳と湯の丸山に登ったのは、今から50日前の今年の2月1日でした。歳月の経過は、積雪量がぐんと減っていることからも伺われます。登山用具としては、スノーシューは出番がなくて、軽アイゼンかワカンが適当だろうと思われました。圧雪されたスキー場を、軽アイゼンを着用して前進すると、リフトのチケット売場があります。ひやかし半分で、「登山者は乗せないのでしょう?」と言うと、予想に反して、「いいえ。乗ってもらっています」とのこと。おまけに、第4リフトに乗れば、高峰温泉に通ずる林道は目と鼻の先だとのこと。リフトを降りると、深い谷を隔てて、西籠の塔山(2212M)を見上げることが出来る。山スキーのシュプールに固められた林道を前進すると、左手に西籠の塔山と東籠の塔山との鞍部を見上げるようになる。夏道の登山道は、池の平という峠なのだが、そこに行く前にダイレクトで、鞍部に登ってみたくなる。だが、1歩林道をはずれて、オオシラビソの樹林に入ると、クラストした雪を踏み抜いて、股まで埋まってしまうので、あわててワカンを着用する。なだらかな雪面の登高を続けていると、正字を使って、「スキー必携 大學目藥」と印刷された、ホーロー引きのプレートが木の幹に残存している。このコースは、かつては、山スキーのノーマルルートであったことを知る。林道をそれてから30分、物の見事に、東籠の塔山と西籠の塔山の鞍部に登り着く。まずは、西籠の塔山に登ることにするが、湯の丸山や烏帽子岳の稜線の向こうに、白馬岳から穂高岳に至るまでの長大な稜線が壁立している。頂上直下の露岩地帯の手前で、ワカンをはずしてツボ足で登頂する。簡素な山名標識があったが、三角点は埋設されてはいないらしかった。まずは、北アルプスの大観に酔う。次に、白馬岳の北に位置する、北信の山々に視線を走らせる。戸隠山、高妻山、黒姫山、火打山、そして、妙高山。視線を西から南に転ずれば、乗鞍岳、御嶽山、中央アルプス。そして、蓼科山から赤岳に至るまでの八ヶ岳連峰。金峰山の右肩には、富士山が、今日もまた秀麗である。山頂から少し西におりて見ると、奥志賀、上越国境の山々、それに日光連山も見えている。日本百名山の3分の1は見えるのではないかと思われるほどの、すばらしい山岳展望である。30分以上も滞在してから、西籠の塔山の山頂を辞去する。いったん鞍部まで
下ってから、東籠の塔山に登る。2年前の3月、車坂峠から登ったことがあるが、その時には、西籠の塔山まで行く元気はなかったことを思い出す。それはさておき、東籠の塔山への急坂を喘登している時、自動車のエンジン音に悩まされる。頂上から見下ろせば、スノーモービルが、池の平らのゲレンデを走り回っているのである。じゃあ、池の平への下山はやめだな、と思う。再度、山岳展望に耽っていると、8、9台の車輌が雪の林道を高峰温泉の方に引き返して行くところであった。再度、方針を変更して、東籠の塔山から池の平に下りることにする。風に痛めつけられたカラマツ林を抜ける道筋は、うるさいほどにテープが結わえられている。池の平からは、ひたすら林道を歩いて、地蔵峠に戻る。このコースは、天候にめぐまれれば、もっと早い時期に雪遊びをしたらば面白いであろう。
西大巓
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 3月13日(土)20時56分56秒
2004年3月13日(土)
昨夜泊った磐梯熱海の宿を、午前6時に出発し、猪苗代のグランデコスキー場には、7時5分前に到着した。折しも、「ゴンドラ・リフトは只今より営業を開始いたします」というアナウンスが流れる。平日は無料の駐車場も、今日は、1000円の駐車料を取られる。それでも、駐車場には、すでに100台を越える車輌が並んでいる。すでに、磐梯熱海の宿を出る時に、山仕度は整えてあるが、はやる心を抑えて、入念に忘れ物がないかをチェックする。7時30分、ゴンドラの山頂駅に到着する。山麓で聞いたアナウンスにもかかわらず、西大巓への登山口に行くための、第4リフトは9時にならないと動かない。それまで待ってはいられないので、スキー場のゲレンデを歩いて、第4リフトの終点をめざす。天候は、磐梯熱海で、日の出を見ることができたのに、グランデコスキー場には雪が音もなく降りそそぐ。今朝出がけに見たテレビの天気予報が「晴れ」であったことを頼みにして、人気のないスキー場を、愛用のスノーシューで上へ上へと歩いて行く。30分後には、第4リフトの終点に着くことができる。実を言うと、4日前にもここに来たことがある(雪が深すぎて敗退)ので、取り付きの位置は承知している。そちらに視線を走らせると、地吹雪に埋められながれも、トレースをそれと確認することができる。このトレースが途中で見えなくならないことを祈りつつ、登高を開始する。植生は、基本的には、オオシラビソの疎林であるが、これにダケカンバを交えている。オオシラビソの樹高は優に、10Mを越えているので、展望はないに等しい。トレースを見失わないようにして、ひたすら上へ上へと牛歩を続ける。高度計の針が1800Mを越す頃、オオシラビソの背丈がぐんと低くなり、遠望がきくようになる。同時に、天候も回復の兆しを見せ、頭上に青空を垣間見るようになる。それで、頂上に着くと同時に、360度の展望に恵まれたりすることを夢想する。西大巓の頂上を見上げるようになると、トレースは、樹林帯を抜け出て、広大な雪原につけられている。この頃から、磐梯山を見上げたり、桧原湖を見下ろしたりすることができる。尾根に飛び出すと、西吾妻小屋や西吾妻山が見えるようになる。ゴンドラの山頂駅を出てから2時間30分後、西大巓の山頂に着く。山名標識はないものの、小さな三角点が露出している。標石の大きさからすると、その等級は3等であるらしい。烈風を避けて、山頂からすこし下った樹氷の陰で風をよける。北の方角に、米沢盆地を見下ろすことができるが、期待していた、飯豊山や朝日連峰を遠望することはできなかった。菓子を食べながら、立ち休みをしてみたが、不思議なことに、西吾妻の山頂に行きたいというパトスが湧いてこない。しばらくすると、10人ほどのスキーヤーが重装備でやって来る。聞けば、「弥平四郎まで行きたい」とのこと。ぼくは、内面の要求に従って、かれらに山頂を明け渡して下山にかかる。足元には、グランデコスキー場のスノーボーダーがまるで蟻の群れのように小さい。下りには、スノーシューが威力を発揮してくれ、雪の海の上を泳ぐようにして駆け下りる。登りに2時間30分かかったところを、たったの45分でゴンドラの山頂駅に着いてしまう。小さなレストランで、熱いコーヒーを楽しんでいると、出し抜けに猛烈な吹雪が荒れ狂い始める。うーん!今日は、体調不良で、西大巓で引き返してきたが、結果的にはまったくの「正解」であった。もし、西吾妻山に向かう途中、この吹雪に遭遇したならば、大変な目に遭うところであった。安堵の胸をなでおろしながら、ゴンドラで山麓駅に向かう。山麓駅の職員は、「登山には、向かない天気ですね」と同情してくれる。ぼくは、「いや、西大巓では晴れてくれたのです。もっとも、今日は不調なので、西吾妻には足を向けませんでした」と言う。かれは、「それは、結果オーライでしたね。吹雪に叩かれたら、一苦労も二苦労もさせられたでしょう」と喜んでくれた。磐越道を猪苗代から郡山まで引き返したところで、吹雪は雨に代わり、東北道を福島から栃木に抜けると、晴天域に入ることができた。
社山
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 2月28日(土)21時31分7秒
2004年2月28日(土)
本当を言うと、今日の晴れ間には、会津のグランデコスキー場から西大巓経由で西吾妻山に登りたかった。しかし、昨夜は、望まぬ宴会に出なくてはならず、いつになく多くのひとと話をしなくてはならなかった。その余韻で、昨夜は、寝つきが悪かった。会津往復の時間も考慮に入れるならば、今日は、登山向きの体調ではない。急遽、中禅寺湖南岸にある、社山の初登頂に向かうことにする。到着した歌ヶ浜駐車場は、きちんと除雪されていて、四輪駆動車が5、6台駐車している。驚いたことに、数匹の犬もいる。実は、猟銃を肩にした面々が出発するところであった。ウサギやイノシシと間違えられて、「ズドン」と一発見舞われるのは真っ平である。いつも通り、クルマの助手席でガスコンロをたいて、朝飯の鍋焼きうどんを作っていると、隣にクルマが入ってくる。聞けば、「社山に登る」とのこと。しっかりとトレースをつけておいてもらいたいものだ。先蹤者よりも、30分遅れで出発する。阿世潟までの1時間は、湖畔沿いの散歩道である。岸に打ち寄せるさざなみの音を聞きながら、ミズナラ、ブナ、ダケカンバの疎林につけられた道をたどる。すでに、駐車場付近の積雪状態から、スノーシューの出番はないことが分かっていたので、凍結した林道を転倒に注意しながら、ツボ足で慎重に前進する。夏には、モーターボートの騒音に苦しめられるところだが、いまはひたすらなる静寂があたりを支配している。右手に男体山を見上げながら前進を続けると、八丁出島を過ぎたあたりから、菖蒲ヶ浜の向こうに日光白根山から根名草山にかけての稜線が遠望される。なかなかの好展望で、昨夜の憂さを忘れさせてくれる。キャンプ場からは進路を東に転じて、阿世潟峠をめざす。最初のうち平坦だった雪道は、「阿世潟峠 0.2KM]の標識を過ぎたところで、古いトレースが風に飛ばされた雪で埋められてしまっている。同時に、ここからは傾斜がきつくなる。先蹤者は、大胆にも沢沿いにトレースを引いている。なぜ「大胆」と言ったかは、その左側の沢には、雪崩の痕跡が明瞭であるからである。わたしは、左手の尾根に取り付き、これを直登することにする。すぐ頭上には、峠の上の青空が見えるからである。だが、標識のところで軽アイゼンを履かなかったので、この尾根を登りつめるのに意外な時間の消費があった。やっとのことで、尾根にたどり着いたものの、そこには期待していた「阿世潟峠」の標識がない。北に視線を走らせると、標識と案内板との存在を確認することができた。つまり、わたしが登り着いたのは、峠よりも少し南の方だったのである。尾根からは、はるか南に奥秩父の連嶺がうす青く線を引き、その上におもちゃの白扇をぱらりと開いたような富士山が鎮座ましましていた。さて、すでに尾根に出た以上、社山の頂上は、すぐに到着できるはずだった。何となれば、歌ヶ浜から見上げた社山のピークは、指呼の間に見えたからである。予想とはちがって、社山の頂上までは、たっぷり1時間も歩かされた。しかも、その3分の1は、夏道が露出していて、軽アイゼンもワカンも出番がないのである。もっとも、背の低い笹の尾根につけられた登山道からは、足元に広大な中禅寺湖を見下ろすことができた。わたしは、日光の登山において、これだけ広大な中禅寺湖を見下ろしたことがない。また、湖水の背後には、男体山、太郎山、山王帽子山、於呂倶羅山、根名草山、温泉山、金精山、五色山、前白根山、奥白根山、錫ヶ岳がずらりと勢揃いしているではないか。そして、その前景には、戦場ヶ原が白い雪原となっている。うーん!社山の頂上に向かう尾根は、これほどの眺望を与えてくれたのか。中国語では、景色のよいことを「有山有水」と表現する。いま目撃している光景は、まさに「有山有水」そのものである。もっと早く、この尾根道を歩くべきであったと後悔する。やがて、背の低いオオシラビソが現れると、社山の頂上に到着する。山頂には、手製の山名標識が2つ3つ結わえられているだけの素朴な山頂であった。先に到着していた二人連れに、「三角点はどこですか」と聞いてみたが、要領を得なかった。山頂からは、南の方角に当たって、足尾の山々と、桐生・安蘇の境界付近の山塊が見下ろされたが、皇海山から袈裟丸山にかけての山域を除けば、一々のピークの同定はできなかった。ガスコンロでわかしたお湯でコーヒーを2杯まで楽しみ、「山の神」が持たせてくれたクロワッサンを賞味した後、心満ち足りて下山にかかった。
車山
投稿者:
yama-tora
投稿日:2004年 2月20日(金)22時57分25秒
2004年4月20日
猿ヶ馬場山は、高山からそれほど遠くない。スノーシューの威力を試すため、天生(あもう)峠から登ってみようと思う。午前5時に高山のホテルを出たが、宮川村に入ったとたん、「天生峠 冬季通行止」の電光掲示板が出ている。いまさら高山に引き返すのも業腹なので、神岡経由で安房峠に向かう。トンネルを抜けて、長野県側に出て、山下りを始めてまもなく、「乗鞍高原」の標識に誘われる。国民休暇村の前で、行き止まりになってしまったが、あたりの風景は、それほど見事ではないので、乗鞍林道をスノーシューで歩こうという気にならない。結局、帰路に霧ヶ峰に寄り道することにする。
富士見台の駐車場が除雪されていたのを幸い、スノーシューで尾根づたいに山頂をめざす。蓼科山から編笠山に至るまでの八ヶ岳連峰を背中に背負って、スノーシューで軽快に雪上散歩を楽しむ。スノーシューは、登山のためというよりかはむしろ、高原の雪上散歩を目的とした登山用具であることを再認識する。登るにつれて、鹿島槍から穂高岳に至るまでの北アルプスの長大な障壁が左手にせりあがってくる。鹿島槍以北は、美ヶ原の台地によって眺望がさえぎられる。富士見台を出て、きっかり1時間、車山の山頂に着く。北信五岳のうち、妙高、火打、焼山の3つが見えている。先週登った、四阿山も隣接する根子岳と並んで全容を見せている。最近登った、烏帽子・湯の丸・黒斑の諸山も指呼の間である。やや見慣れた感があるものの、見事な山岳展望に酔う。
以上は、新着順181番目から200番目までの記事です。
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